「言葉」というモノの基本的な役割や性能は
「伝達/説明/コミュニケイション」だと想う。
言うまでもなく説明書やガイドブックはそうだし
小説や詩なども作家の脳にあるイメージや物語を
作家の知っている言葉(語彙)で「伝達/表現」している。
例えば会話。
「お母様。わたくしはたいへんお腹がすきました」
「そうですか。わかりました。
では1時間ほど待ってくださいね」
「お母様。わたしもお手伝いをさせて頂ければ
少しは早くなるでしょうか?」
「うれしいわ。じゃあキッチンへ」
自分の状態や気持ちを伝えている。
「かあちゃん。はらへったぞ」
「うるさいガキだね。ちっと待ちな」
「我慢できねー。お腹と背中がくっつくぞ」
「じゃあ駅前のスーパーにひとっ走りお使い行きな。
そしたら早くなる」
「マジ!?じゃあダッシュでいってくるぞ」
内容は同じだが伝えている。
とここまで書いたオレのこの文章自体が「説明」だ。
で。
なにを言いたいかというと
オレはこの「説明」ってのがすごく最近いやなんだ。
でもガキの頃からかなりのコトバフェティッシュ(略は言葉フェチ)なオレは
今後もコトバと「コミットメント(関係を持つ)」しなければならない。
ディレンマ。
1950年代のヨーロッパでは
この「言葉の本質」に辟易した若き芸術家たちが
「ダダイズム」という運動を始めた。
(後のシュールレアリスムへ。
サルバドール・ダリの溶けて曲がった時計の絵など)
それまでは盛装をしてシェークスピアのオペラへ。
何度も見た同じ演目だが素晴らしい。
というヤツらに牙をむき出し
観客罵倒という芝居や2時間ふたりの役者が
ふたつの台詞を永延と繰り返すヤツとか。
とにかく徹底的に「コトバの意味」を排除していった。
「ダダ」というコトバもなんの意味もない音だけのコトバ。
ダダにいつてはそれぞれ調べるように。
説明やだから。
おーし。
だから佐野元春の「情けない週末」のサビの
ポップな単語の羅列に斬新なモノを感じたし
山田晃士の「チョコレートギャング」にも
新しいモノを感じた。
ジムジャームッシュの映画を想いだす。
小説では20歳で読んだ村上龍の「コインロッカーベイビーズ」だ。
タイトルからしてビビったし
リーコニッツ/ダチュラなどなんじゃこりゃあの連発だった。
で。
オレはいま最中なんだよ。
ポップなコトバを。
キラキラして
ワクワクするような。
いつのまにかよ。
感動する側じゃなくなっちまったというか
「つくりつづけなければ」でよ。
音楽に国境はないが
コトバに国境はバリバリある。
んじゃ。